古泉智浩の『読書とお知らせ』

マンガ家の古泉智浩です。ココログより引越ししました。

物語においての引きについて

 先日、とあるマンガ家の先生のドキュメンタリー番組を見ました。その作家さんの作品はいつも途中まで抜群に面白く、結末に向かうに従ってがっかり感が強くなると思っていました。それがなんでなんだろうかとちょっと考えてみました。

 その作家さんは、物語にある謎を設定して、それが暴かれそうになるとやっぱり謎だったという仕掛けを延々くりひろげ引っ張ります。読み手としてはものすごく気になるわけですよ。しかし、その番組中で、読者がその謎ばかり気にすることが不本意であると述べてました。自分が描きたいのはそこじゃないと、そこばっか気にされても困るというような事を言ってました。

 えーっ!そうさせてんのはそっちじゃん。

 そうやって物語り上の演出として、そういうのってわくわくしますよね「あ〜やっぱり分からなかった、いったい正体は誰なの〜?」なんつってやきもきするわけじゃないですか。雰囲気たっぷりに演出されたらそりゃ気になりますよ。

 でも、ドラマでそのような期待をあおるようなやり方は、受け手に対して借金をしているようなものではないでしょうか。期待をあおって引き伸ばされると、ますます期待が高まって、読み手の期待に応えるような仕掛けでないと納得できないです。これまでの作品では、それがあんまりうまく行っているとは言えないのではないかとオレは思うんですよね。さらっと描いてある分には、文脈上行けるようなものでも、雰囲気たっぷりの演出をされて期待が高められた後ではあんまり等価でないようになってしまうのではないかと思います。

 すごい謎があるぞって雰囲気で来られると、とんでもなくすごい回答がないとダメじゃないですか。どんどん引き伸ばして巻数を増やして、読者につき合わせているわけですよ。読者さんに対して借りを作っているわけなので、きっちり利息も含めて払うように踏ん張っていただかないとダメですよ。ちょっとやそっとじゃ納得できないですよ。雰囲気たっぷりで回答を提示されても内実が伴わないと納得しません。

 途中まで面白いじゃないですか、壮大なスケールのドラマが展開されてますよ、で、煽るだけ煽っておいて、なんだか誤魔化すような結末だったら、それまでの期待や読むことに対する労力がなんだったのか、胸をかきむしられた感覚が無意味だったような気分にさせられたら、すごく嫌です。

 なので、オレは期待を高めない方向でドラマを構成していこうと思っております。とんでもない謎とかオチなんて思いつかないですもんね。

 奥歯に物が挟まったような文章で非常に恐縮なのですが、同業者の悪口にもなりかねないのでお察しいただきたいのです。こっちは業界内で端くれもいいとこの端くれなので滅相もない発言は控えなくてはならないのであります。