古泉智浩の『読書とお知らせ』

マンガ家の古泉智浩です。ココログより引越ししました。

ちばてつや先生

 小学館の忘年会で、ちばてつや先生にサインをいただこうと、『あしたのジョー』8巻を持って行きました。忘年会ではサインをねだったりしないようにと、アナウンスがしきりになされていたのですが、多分そんなに嫌じゃないはずという読みでこっそりおねだりする作戦でした。

 去年もちば先生にサインを頂戴しようと同じ本を持って行っていました。あ、ちば先生だ!と横顔をお見かけして「ちば先生、済みません」と声を掛けて、こちらを振り向いたら全く別の人で物凄く焦りました。どうやら去年は、ちば先生いらしていなかったようでした。

 今年は慎重にちば先生を探しました。いた!と思って声を掛けようとしたのですが、去年そんな間違いがあったものだから、躊躇してしまいました。すると、ちば先生がちば先生とそっくりな人と向かい合って会話されてました。多分、どっちかが去年間違った人で、どっちかが本人なのは間違いありません。ここで声を掛ければ、なに?って言ってくれる人が本人だと思うのですが、そんなの失礼ですもんね、会話が終わってちょっと小柄な方がより、本物っぽかったので声を掛けてみました。

 「ちば先生、1992年にちばてつや賞をいただいてマンガ家になった古泉智浩と申します」 と名刺を差し出しました。
 「え、今もやってるの? 何年だって?ヤンマガの方?」と言って名刺に「1992年、ヤンマガ」と書き込んでいらっしゃいました。そして『あしたのジョー』8巻にもサインをしてくださいました。

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 実は、あんまり自慢しているみたいでいやらしいような気がして、オレのデビューがヤンマガのちばてつや賞で大賞だった事はよっぽど聞かれない限り言わない事にしていました。大賞で賞金は100万円でした。一色紗英が表紙の号だったと思います。手放しで自慢できない事情もあります。担当の編集さんに「うちは絶対に大賞は出すからね、今回はあんまり競争が激しくなかったよ」と、全体的にレベルが大したことないから取れたんだよと、調子に乗らないように釘を刺されました。それに、描いたマンガも大島弓子先生のマンガから相当パクッた影響を受けた作品でしたし、何より実力が伴っていなかったために雑誌の期待に応えられずフェードアウトして、1998年にアックスで『ジンバルロック』の連載が始まるまで長いトンネルに入ったようなものだったからであります。なのであんまりふがいなくて、胸を張ってヤンマガでデビューしたと言えませんでした。

 しかし、ちば先生がすごく嬉しそうにして下さったんですよ。今も現役でマンガ家を続けている事に喜んで下さったんだと思いました。ちばてつや賞の特にヤンマガで大賞を受賞した人でその後もサバイバルできている人はあんまりいないと思います。田舎暮らし実家暮らしのオレが言うのも図々しいですが、描かなくなってしまう人が多いです。今ざっと調べてみると、すぎむらしんいち先生、さそうあきら先生、故・華倫変先生、きらたかし先生くらいですか、佳作や優秀新人賞の人の方が圧倒的にその後も続けている人が多いです。

 ウィキペディアでどなたか親切な方がオレの略歴を解説してくださってますが、アフタヌーン四季賞でデビューとなっていて、佳作を取った事があるのでそんなに違ってないのですが、ちょっと間違ってます。ちば先生も、もしかしたら、大賞受賞者の行く末をいくらか気にかけてくださっているんだと思いました。なので、オレはこれから胸を張って栄誉あるちばてつや賞として、マンガはみっともない内容が多いですが、出自についてはみっともなくないぞと明らかにしていこうと思いました。1992年冬のヤングマガジンちばてつや賞で大賞をいただいた『でもね』という作品でオレはデビューしました。